主に浅草で食べたものを記録していくよ

優柔不断な無職がかわいい猫についてや、食べたものについて書いています。


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父の余命を聞きにいった話2

というようなことがあった。

 

いろいろ考えますよね、父親が死ぬということは。小細胞肺癌の余命として残り1年が妥当なのかどうかわからないし、どうせ5年くらい生きるんじゃねえのという気持ちもあって、あんまり実感はない。

少し意外だったのは父が生きることに執着しているように見えたことだった。医者から癌の転移を聞かされた父は心底落ち込んでいるように見えた。父は以前から

「わしが死んだらおまえにやってほしいことはここに書いてあるから」

とPCを指さしてよく言っていたから、ある程度自分がどのくらい生きられるのかという感覚と覚悟は持っていると思っていた。

 

病院から帰ったあと、母親が先生との話を詳しく教えてくれと部屋に入ってきた。母も父の余命が1年とは思っていなかったらしく、少しナーバスになっていた。とはいえ、やはり話にあがるのは父が死んだあとのこと。葬式をどうするか、いま住んでいる一軒家を処分するか、それから派生して親戚付き合い、近所付き合いなど、母が一方的に話す愚痴を2時間くらい聞いた。

母の話を要約すると近親者、特に親戚と疎遠になっているようだ。

「本当に大変なときに助けてくれない人はいらない」

と何度もいっていた。なるほど、そうだろうなと思う。ただ生きづらいだろうなとも思った。母は大阪弁でいうところの相当な「気ぃ遣ぃ」というやつで、僕に対しても同居しろなんて絶対言わないからと宣言するような人だ。他人に求めないストイックさがある一方で、他人に対して譲れないものがあるようだ。まあ、別に嫌いな人とむりやり付き合っていく必要なんてないと思うしまったく問題ないと思う。だから父親の葬式は身内だけ、下手したら僕たちだけでやることになるかもね、なんていって笑った。

 

晩飯はてっきり母親の手料理を食べさせてくれるのだと思ったら、なんと焼肉を食べにいくらしい。肺癌患者は大丈夫なのか。たまに咳がとまらなくなっているのに。食べたいものを食べさせてやるという発想もあるにはある。焼肉に行く理由は夫婦ふたりだと肉の種類が食べられないからだそうだ。つまり僕は両親が1枚か2枚食べた残りの肉を食べる係として焼肉屋に連れていかれるらしい。

近所に新しくできたという焼肉屋に歩いて向かう。すると「本日定休日」の札が出ている。仕方ないから数百メートル離れたたまに行っていた焼肉屋へ移動する。今度は満席。電話して席あるか聞いたほうがいいんじゃないといったのに、平日だからだいじょうぶだとか言ってこのざまである。なぜ電話を一本する手間を惜しむのか。

当てのなくなった両親をタクシーに乗せて駅前に向かう。てきとうにスマホで調べて新しくできたっぽい焼肉屋に電話をして席を確保。ようやく焼肉にありつくことができた。

 

とりあえずビールを飲む。父はとにかくバラ肉が好きらしく、バラを2人前注文しろとうるさい。あんな脂っこい肉好きな病人ってなんなんだ。普段はバラとハラミを食べたら終わりらしい。それはちょっと寂しいな。

父にミノは食べないのかと聞いてみた。小さい頃、自宅で焼肉をすると父だけがミノを食べていた記憶があったからだ。

「歯が悪なってもてな。ミノは食えへんのちゃうかな」

食べたそうだったので上ミノを追加して店員さんにハサミをもらう。一切れを4分の1程度にカットしてあげると、これなら食べれるとうれしそうに食べていた。

 

「それ何食うてんねや」

僕がチャンジャを食べているのを見て聞いてくる。チャンジャを知らない父。こういうことはよくあった。自分のしらないものを受け入れない人だった。

 

高校生の頃、柔道をやっていた僕は自宅のテレビで高校柔道の試合を見ていた。父もその場にいてあれこれと僕に言ってくる。

「高校生は間接技は禁止か?」

と父が聞いてくるので、高校はアリやと答える。それでも父は

「いまんとこは間接とれるやろ。絶対禁止や」

といってくる。柔道なんか体育の授業でしかやったことがない人が現役でやっている僕にルールの理解が間違っているといってくるのだ。反抗期だったということもあり口論になり、ガラスの灰皿をぶん投げられ、土下座して謝らさせられた。

 

そんな父にチャンジャをすすめてみると

「ちょっと食べてみようかな」

と食べたのである。どうせ「なんや気持ち悪い。そんなもんいらんわ」ぐらい言われると思っていた。素直にチャンジャを食べて、悪くないなという父はなんだかかわいらしく見えた。この日の父はやけに楽しそうだった。熱燗もけっきょく2合ほど飲んでいた。めちゃくちゃ元気じゃないか。

 

この人があと1年で死んでしまうのか。ははあ。すごいもんやなあ。そんなことを考えた実家での一日だった。